昭和44年7月28日朝の御理解                                                                                                           御理解第十八節・・・・「此方の事を、神、神というが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。」と・・・。  よく人間は神様の子供だと、神の子だという風にいわれます。けれども私は、神の子じゃ ないと思うね。やっぱり人間は人間である。人間は人間の子である。         ね・・・。此方の事を、神、神、というが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々は みな神の氏子じゃ。」と、此の方の事を、神、神というが。その生神様「此の方は生神様のような人じゃ」と。と言うところから、この神、神とこういう生神様。         言うならば、教祖でもやはり、人間である。けれどもその言われるう事、行われる事。  その中に、神様と思わなければおられないほどしの、おー生き方というか、ありかたというものがです。(ひとをして、?)生神、生神と・・・言わしめたんですね・・・。    言うならばその神様から・・・なんと申しましょうかね、まぁ言うならば神様あつかいを受けられたというのです。○人間なんだ。けれども、そのされる事、言われる事が神様のような、広い大きな心であり、または美しい心であり、我情がなく、我欲がなく、本当に人はそれを、神様のような人じゃと、いわいる神様から、教祖の神様は、神様あつかいにされなさった、 人間だと言う事です。生神とは・・・ね。○そこで教祖様の教えて下さる事を私どもが行事させてさせて頂くという事になると、ね。そりゃ人間は人間であっても、神様がそれを神様あつかいにして下さる・・・ね・・例えば、んー、犬でも猫でも、ね。犬に間違いはないのである。猫に間違いはないのであるけれども、その犬やら猫やらが、素晴らしい犬であり、 素晴らしい猫であり、いたしますとそれを人間が、人間並みにあつかうようになるでしょうが。例えば食べ物でもなんでも、人間が食べないごたる良い物をたべさせる。ね。先日もある御信者の所の・・・それこそ、もうお金にすんならずいぶんがたあろうという大変めずらしい犬を大変かわいがっておられた。その犬がある日そのー(?)に取られていもうた。さぁそれこそ、子供さんがございませんからまるっきり自分の子供の様に可愛がっておられた、それこそ人間並みに、そのあつこうておられたのが取られたものですから、自分の子供を亡くしたように嘆き、悲しまれた。ね。そんなお届けがございました。それはもう大変めずらしい犬だったからですよ・・・。人間でも人間の中に、「あの人は人間にしちゃちっためずらしか」と。そのあげなん人間なおらん。本当に神様のような人じゃという事に段々なってまいりますとです、天地の親神様はその人間を、神様のように あつこうて下さるようになる。ね。猫でもよく人間の言う事を聞く猫がおりますよね。 もう本当に人間の言う事がよう分かる・・・。○猫といやぁ、例えば「油断しとると猫が来るぞー」というように魚なんかでも、油断しとると猫が取ってしまいます・・・・  そういう猫は、それこそ「このドラ猫が」と言うていわれる訳です。         体が目っかりゃもうすぐ叩かれるのです。追い払われるのです。ところがその猫がです、段々人間に飼われて、そえがりこうに、かしこうになって・・・言わば酒屋の番をするようになる。ね。○言わば猫がカツオの晩をするようになる。猫にカツオぶしといや、もう猫がそれこそここからよだれがでるほどにほしいものですけれども、ちょっとその教育されて、そのカツオの晩をするようになりますと、「はぁもう家の猫は大した猫ですよ」と  「もう魚の晩をするようになりました」と、ちゃんちゃんコのような、その日本、人間  毛がら、着物をきせてやったり、ね。例えばその餌でも「ほう、それが猫の食べもんか」と言うぐらいによい食べ物を食べさせます・・・ね。これなんかはもう猫が人間並みに あつかわれるようになったわけです。ね。ですから人間とてもやっぱりそうだ。ね。  人間として「これりゃもう、ほしゅうてたまら」それでも神様が、ね。「それは取ってはいけないぞ、食べてはいけないぞ」と言われりゃ、それをジーっと辛抱して、いわいる、神様の仰せどうりにつかまつりますという事になってくるとです、ね。猫が人間並みに あつかわれるように、人間が神様並みにあつかわれるようになる。          そのにです、いよいよ勿体無いという事になってくる・・・・ね。          ですから今日はここの生神と言うことで非常にいつも問題になるんですね。      なるほど、○生神とは、自分の心の中に真にありがたいという心が生まれてくる。   そのありがたい、それはもう生神の言わば心が境地だといわれております。      ですから信心とは、そういう真にありがたいというものを求めて、求めて、求めぬいて 行く事。ね・・・そこで私はやはり、マネから入る、教祖さまのマネから入る。    え~最近もうこれで四回目の少年少女会の方達が、え~いろんな教育を受けて、泊まりがけで受けております。その四班目の人達が今日で終わるわけですが、今日の少年少女会のその班は、「モンキー組」というんだそうです。どの顔を見ても、本当にモンキーのごたるとばっかりですよ。もう本当にちーっとばっかり( ? )とばきいたごたるとが集まってるんです。ははー、やっぱ神ながらに、なんち言うんですかあの、北さんところの、あのー母親が着けて一緒に参ってまいりました。そしたら、あのー「今日の少年少女会に参加させて頂く」ここでもう、こうこうやってから猿のマネをしようる。「ほーやっぱ、モンキー組じゃけん違うねー」っち言うて笑うたこつですけれども、みんなそんなものをその言わばマネの上手といったような、あーの、子供がね、おかげを頂いておる。そこでいかにそのお父さんやらお母さんやらが良いありかたになっておらないといけないかと いう事なんですよ。そのかわり見てごらん、御祈念をしておるともう、そこのお父さんの個性、そのお母さんの個性、というものをちゃーんと受けとっとるですよ。      一人、一人ですね、親のする通ーりするです。もう拍手の打ち方から、拝み方からですね、「はぁ~」してからもう、まぁ子供ながらですね、その拝み方が違うんです。     それはそこのお父さんが毎日拝んでおる、そのところのお母さんが御祈念をしてろる、 それをちゃーんと見てとっておるんです。ね。「モンキーさん達は彼ですから」と言うてあの人達が猿の子と言う訳じゃないでしょうが、(笑い)ね。モンキー組なんだ。   だからあの人達は生神さまになれれる、非常に近いものをもっておる。        教祖さまのマネでもどんどんするようになるじゃろうと思うんです。うん・・・ね   そこから、合楽から生神さまと言われるような人たちが次々沢山生まれてくるであろうとこう思うです。マネが上手。だから私どもは、思うのに、やはりマネだと思うんです。 教祖さまのマネをするんだ。日本人は人マネが大変上手だと言われる。上手な国民だと、言われております。少しめずらしい機械がでけますと、もう日本製の同じような機械が でけておる。もう本当に(?)違うようなものがでけておる。そしてそれをなかなか  研究心が強いですから、その前わくのよりもより良い機械を作りあげるといったような やはり賢いものを日本人はもっておると言われておりますがです。私どもでもそうです。ね。私どもが良い人のマネをさせて頂いて、ね。その人のまた個性というものがあるからまたその個性から良いものが生まれてくる。私は今度は、少年少女会の四回にあたっての、お取次ぎさせて頂いてから、そのー何と言うですかその、班の名前をですね、     ○今日は「ひまわり組」でございました。ね。今日は「カマキリ組」である。一番始めが、あー「ひまわり組」であった。女の高校生の方達なんかを中心した会であった。ね。  本当にですね、もう言うならもう高校生にもなりますからではありますけれども    子供ながらもです、もう非常に(?)よる心の強い人達の集いでした。ね。      もうここでいつも御理解に頂きますようにひまわりという花は、暑い方へ向かって咲いて行こうと、ね。言わば修行をもろともしないと言ったようなおかげを頂けという時に、 頂く御教えです。「ひまわりのような信心をせよ」とこう言うのです。        そういう御理解があったから「ひまわり組」と付けたわけでもないのでしょうけれども、神ながらだなぁと私は思うた。次の「カマキリ組」」というのが、これは、あー高校生を中心にした子供、男性の人だったですかね・・・ほりゃーやっぱり子供ながらもですねーもう言うなら熱烈な、そのなんと言うんですかねー、御祈念ぶりというようなその、おー、態度を、またそういう内容をもっておる子供達の集いでした。「かまきりちゃ、妙な名前付けたね」ちは、私は思いっよったけれども、ほんにカマキリというのは、この辺では、「拝まにゃ通さん」と言う。「ははー、この人達は、もう拝むという事、信心と一番大事な拝むという事にです、ね。そのまぁ熱中できれる人たちだ」と。このカマキリ組というのもなかなか、「おかしな名前付けたな」と思ったけれど、やっぱり神ながらな事だなとこう思う・・・ね。昨日は小学生の六年から下の三年生までの、女の子ばかりでした。 その班の名前が「ひよこ組」という名前。みんなお父さん、お母さんがもうここで一流の信心をしておる人達ばっかりの、まぁ子弟というてよいくらいでした。        ね。親鶏に対するひよこ。ね。それで私が昨日三回の時にそんな事を申しますんです。 「鶏というのはもうどういう中からでも、どういう中からでも餌をひらって、しかもその、んーそういう餌を頂きながらでも、(   ?   )と言うてですね、それこそ(?)中からでも、自分の生きていくための餌を拾うて、そして人間が喜ぶような卵を次々と 産み出していく。だからその鶏が、人間から可愛がられる。ね。           そういう言わばひよこなのだ。あなた達のお母さんやお父さん達はそういう信心を今してるんだ。こういう例えば難儀の中にあっても、一心に信心の喜びを頂いて、喜びの卵を 次々と産みなしていっては、神様のお喜びを頂いておる人たちの子供であり、     ひよこであるんだ」と。そういう風に申しました。ね。今日で終わりになります(?) なんかは、言わば生神さまに早くなれれる感じの人達ばっかりの感じです。      「モンキー組」ですから。ね、モンキーというのはなかなか人マネが上手だとこう思われた。私どももどっちかっち言うと、その人マネが上手じゃった。           人マネが、しかもありがたい人のマネをするようになった。私が役者のマネをしたり、ね。軽業師のマネをしたり、(?)のマネをしたり。ね。やはりあのそうですよ、少年青年期にですね、そうようなものにちょっと憧れるんですよね誰でも。ちょっとキザな格好して、そのーまぁ遊び人のマネをするといったような子供があります。ね。態度でも、ね。着物なら着物の好みでも、遊び人しか着らんうような物を着たり、えーものの言い方をするようなマネをちょっとするという時代があります・・・。それを私はおかげを頂いて、  言うならば神様の、まぁ神様っちいよると(笑い)まぁ言うなら先生のマネをしてきたと言うでしょうかね。いわいる生神さまのマネをさせて頂いて来た事がおかげを頂いた。 私今から考えますのに、まだ十五~六の酒屋のこぞうにいっておる自分に近所の、おー、むかいが、家事やさん、それから鉄板屋さんでした、あーブリキ屋さんですね。    あのー塗炭屋さん、それからこっちが介助さん、その向こうが八百屋さん。ちった離れた所にとこやさんがあった。そういう所の職人のでしに来ておる(?)さんやら、そのー そこの息子さんやらを朝皆つれーのうて、朝参りをいたしました。          親達からも大変喜ばれます、私早く起きてずーと起して周るんですよ。それでまぁそのー子供の頃ですから分かりゃしませんけども、わーわーついてくるだけですけれども。  ある霜の朝にですね、八百屋のちゃんっていうのがちょうどくしわらの手前にあきば神社っちいう所があります。あそこん所の大変な霜の朝でしたが、その(げたの?)を切ってしまったんです。その時私がですね、ここでこの人に冷たい思いをさせると「もう、明日から参らん」っち言うかもしれんと私が思うたもんですから、私がたび裸足になってから、「これを履け」って言うて私の下駄を履かせて、私裸足で参ったんです。       考えてみるとほんなこて神様のマネをしておるです。ね。っと言うようにですね。   そういうその、同じマネでもね、やはり偉い先生のマネやら、または、神様のマネができれるところからです、段々それが自分のものになってきた。ありがたいマネが本当に  ありがたいものになってきた、ね。私は、ここに教祖がおっしゃっておられる「人間は みな神の氏子じゃ」というのは、神の子供じゃという意味じゃないと思うんです。   ね。村には氏神さまがあがるでしょう?そこの村の人達はその氏神さまの氏子なんだ。 そこの神様の子供じゃないでしょうが。氏子なんだ・・・。氏子というのは私の子供という意味じゃぁない。私は今日はそんな風にここんところを頂きたいとこう思うのです。 また厳密にいうと、やはり神の子という事になるかもしれませんけれども       やはり人間は人間の子だということです。ね。けれどもその人間の言う事、する事、行う事がです。ね、いわいる神様のマネをするようになり、ね。そのには神様あつかいにされてくるという事ですよ生神とは。「みんなもこのようなおかげが受けられる」とおっしゃるのはそういう事だと・・・ね。ですから、そんならそういう風にですよ「あの人は神様のような人じゃ」というような人でもです、一つの失敗があってです。ね、「(?)神様んごたる奴っち思いよったら、あげなん悪い事をした」という事になってくると、だからいっぺんに、人間に逆戻りです。ね。そのように難しいものなんだ。ね。そので私どもはですね、いわいる御教えを対して、いわいる御教えを対するという事は教祖さまのマネをするという事だと私は思うです。ね、そしてそれがマネだけではなくて、よりありがたいもの、そのマネの中からです、ね、ありがたいマネをさせてもらいよったら、     本当に私自身の ありがたいものになってきたというものでなかにゃいん・・・。   そういう意味においてです、教祖の神様はおかげの受け始めでおありになったのであり、また私の言う通りすればと、ね・・・みんなもその通りにおかげが受けられるという事になってくるのです。ね。先日からもお話を申しますように、ね。           ○人間というものはほっておけば、もうどこまでも自己主義になっていく(?)というか内容を持っておるのです。自分さえ良ければよいという、ね・・・いわいる自己主義者になっていく内容をもっておるのです。ね、そういうことで社会が明るくなるでしょうか。そういうことでは難儀はたてるということはありません。ね。            そこを私どもがです、いわいる信心のむきをかるという事言われることは、そういう私どもはほっておけば・・・ね、自己主義に誰しもがなっていけるようなものを誰しもがもっておる。そこを信心は向きをかえさせるということなんです。人が助かりさえすればとか、ね、人が喜びさえすればとか、ね。親切とか、真心かということを強調して教えられる。だからそこにその、信心の向きというものが姿勢が正されるわけであります。     ね、その過程を例えば子供達のその班の名前じゃないですけれども、「ヒマワリ組」なんだ。ね。だれども暑い所はいやなんですけれども、その暑い方へ向かう事を一つの喜びとさせて頂くような、元気な心というものがその為には必要である。ね、拝まにゃ通おさんであり、一心に祈る。一心拝む。ね
「どうぞ真の人間にならせて下さい」と、私どもは人間ではあるけれども、真の人間か、真の人間でないかというところに分かれ道があるのですから、ね、その「真の人間にならせた下さい」と、真の人間へ向かっての姿勢の正さして頂く事を拝むのであり、祈るのである・・・。そのに、ね。どのような環境、このような立場に、どのような難儀の中に 、あっても、その中から神様が充分喜びが生み出されるところの、言わば餌を鶏が発見していくように、私どもはそれを発見していく。本当にうかつにしておったらここも、   このような素晴らしいおかげがあった。ここにもこんな素晴らし餌があったと、ね、  そこから信心の喜びの卵が産まれたくる。徳の卵が産まれてくる。          ね、卵産んで鶏が人間に喜んでもらうように、私どもは徳の卵を産み、喜びの卵を産んで神様に喜んで頂こうという、そういう稽古をさせて頂くという事がです、私はそのまま、生神にならせて頂くというか、ね。「生神にならせて頂く言わば道だと」というて今日私は、生神とは生神、神様になれるのじゃない、神様どうよう神様あつかいを受けられるようになるという。それを私は御神徳と言うております。ね、段々お徳そ受ける、御神徳を受けてまいりますとです、それこそ、その人間の為に天地が自由になってくださるほどのおかげを受けられる。必要なものが必要に応じて、しかもそれが限りなく無尽蔵に与えられるようになる。「まるであの人は神様のような人じゃ」ということになる。     ね。私どもは決して猿の子供でもなからなければ、神様の子でもない。        やはり私どもは人間の子であるということ。ね。けれどもその人間の、いわいる、人間であるけれども、思うておる事は、しておる事はです。ね。神様のようなことを思うておる。本当に「神様のような人じゃ」と言われるようなことを行うておる。         そこに神様の目が止まらんはずは無い。言わば神様あつかい、それを御神徳を受けるという。ね。教祖の神様はそういうおかげの言わば見本をお作りになられた方なのである。 人間でも、ね。神様になれると、言うのではなくて、人間でも神様同様におあつかいを受けられる事に、が出来るという事をです。ご自分が示された。そして皆もこの様におかげが受けられるという教えを残しておって下さったわけなのです。ですからその教えを頂くという事はある意味において教祖様のマネなのである。マネをしておるうちに、なるほどマネでもです。「気分が良いもんだなぁ。ありがたいもんだなぁ」そこから自分の信心の個性もまたでてきて、ね。そこにはその人独特信心が生まれる。ね。いわいる、機械の、他所の国のをマネして、ね。(?)違わんような物作るだけではなくてそれより立派な物を作り上げていくというその日本人の特別な国民性といったようなものをですね、私どもは、持っておるのでございますから、一つ本気で生神さまの稽古をさせてもらうという事は、生神さまのマネをさせてもらう、そういう方向へ私どもが向きを変えさせてもろうて、ね、人間はほっておけば必ずそれこそ人間の(しょう?)が変わって反対にそれこそあれは、ね。(?)じゃろうか(?)じゃろうかと言うようなです、もう( ?  )も同じだというようになり下がって行く人も沢山あります。ね、そういうものを人間は皆がもっておる。ほっておきゃもう欲は限りなく欲をまわしていく、よる内容をもっておる。  そこを、その欲を外していこうという稽古なんですから信心とは。          ね、和賀心は神に向こうて行くのを信心をいうのじゃと言う。和賀心が神様の方へ向かっての姿勢をです、正して神様の方へ向かって進んで行くということそこに「此の方ばかりばかりが、此の方がおかげの受け始めである、皆もその通りにおかげが受けられる」という事になってくるんだとこう思うのです。今日の御理解十八節は、生神ということの解釈が、今じゃとちょっと違った意味においての生神でしたですね、だからそいう今日私が申しますような生神を目指して、信心させてもらう。それは私どもがこの世でですね神様になれるという事は絶対でけません。人間の子は人間の子なんだ。けれども神様のようにはなれると言うこと、ね、また神様あつかいを受けたおる印しにです。ね、       そういうおかげは受けられると言う事を申しましたですね、どうぞ・・・。                                        けんいち